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サービス案内“展”職成功者インタビュー
島田 康太郎氏
株式会社ウェーブロック・アドバンスト・テクノロジー
代表取締役 兼 執行役員社長
会社というより“人“との縁を結んでもらった。
“人“に恵まれ、好きな仕事を続けて今がある
複合素材の加工メーカーとして50年以上の歴史を持ち、独自の存在感を示すウェーブロックグループ。同グループの中で長年蓄積された技術をベースに、新規事業を積極展開するための組織として6年前に誕生したのが、株式会社ウェーブロック・アドバンスト・テクノロジーです。この春から同社の代表に就任された島田康太郎氏も、じつはアクシアムのキャリアコンサルティングをご活用いただいたおひとり。担当キャリアコンサルタントである渡邊光章が、島田氏にご相談当時のことを振り返っていただきながら、キャリアのこと、転職のこと、現在のお仕事のことなどを伺いました。
転職後10年。走り続けてこの春、社長就任
渡邊
4月に社長にご就任されたとのこと。おめでとうございます! 本日は島田さんのキャリアについてお話を伺い、後輩の皆さん、キャリア構築を真剣に考えている方々に、ぜひ参考にしていただきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いします。
島田氏
ありがとうございます。こちらこそ、このような機会をいただき光栄です。渡邊さんには2度、転職のサポートをしていただきましたが、今の会社に入ってちょうど10年になりました。
渡邊
もう10年ですか。転職をお手伝いした方にその会社で長く活躍していただくというのは、キャリアコンサルタントとして本当に嬉しいです。ではまず、今のお仕事について教えていただけますか?
島田氏
ウェーブロックグループは、1964年に設立された日本ウェーブロックがもとになっており、現在は持株会社制をとっている企業グループです。ウェーブロックホールディングスのもとに5つの事業体があり、いま私が社長をさせていただいているのが、合成樹脂などの加工・販売を行う株式会社ウェーブロック・アドバンスト・テクノロジーです。グループの中で長年蓄積された技術をベースに、金属やメッキに替わるプラスチックフィルム、医療用の張り薬に肌色印刷を施した基材等の製造・販売を行っています。ウェーブロックの会社名はまだまだ一般に知られていませんが、網戸や壁紙、開封テープ、スマートフォンの画面用フィルムなど、日々の生活の中で私たちの製品に多く触れていらっしゃるのではと思います。
渡邊
もともとのご入社は、日本ウェーブロックですよね。
島田氏
はい。社長の木根渕(当時。現ウェーブロックホールディングス社長)のもと新規事業担当として奔走していたのですが、2010年に日本ウェーブロックから一部事業を継承するかたちで、現在所属するウェーブロック・アドバンスト・テクノロジーを新設しました。この会社は、これまで培ってきた技術を活かし、いかに新しい製品に転用できるかを考える、いわばグループ内で新規事業を積極的に行う部門。当初、私は営業やマーケティングを中心に見ていたのですが、この春から代表をさせていただいています。
外資での勤務、日本法人立ち上げ、起業からMBAへ
渡邊
島田さんに初めてお会いしたのは、慶應ビジネススクール(以下、KBS)に通っておられた時ですよね。それ以前のキャリア、またどうしてビジネススクールに通おうと思われたのかをお聞かせください。
島田氏
ビジネススクールに入学する前は、モータースポーツの部品等を販売するイギリスの会社に日本人初の正社員として入り、営業の仕事などをしていました。その後、同社の日本法人の設立に携わったり、自分で立ち上げた会社を経営するなどしていました。そのまま自身の会社を大きくしていく道もあったのですが…実際に会社を経営してみて「まだ色々と自分に足りないものがある」と気付いたんです。例えばビジネスに対する考え方や、ソリューションの引き出しなどが圧倒的に足りないなと。そこで、一度体系的にビジネスについてしっかり勉強をしてみたいと考え、KBSでのMBA取得を目指しました。
渡邊
実際にKBSで学ばれて、何かご自身の中に変化はありましたか?
島田氏
それまでの私は、何か会社という組織に入って働くと、自由に仕事ができないんじゃないかと思っていました。外資で働いたり起業をしたりしたのも、そんな思いから。ですがKBSで知り合った同級生たちの中には、大企業で働きながらも自分がやりたいと思う仕事を手がけ、大企業ならではの大きな仕事をしてきた人たちがいたのです。
渡邊
確かに大きくなればなるほど、組織の論理の中で思うような仕事ができない局面があるかもしれませんが、そればかりではない。やはり大企業ならではの仕事のやりがいや面白味はあると思います。
島田氏
はい。ですから自分も限られた規模、限られた資金の中でビジネスをするのではなく、スケール感のある組織で働きたいと思いました。大きなフィールドで自分を試したい、MBAで学んだことを使ってみたいと。そこで卒業後は、会社を他の人間に任せて就職することに決め、アクシアムで相談に乗っていただいたんです。
卒業後の進路は「人と人とのマッチング」で
島田氏
渡邊さんにご紹介いただき、KBS卒業後のキャリアとして選んだのは、ペトロルブインターナショナル株式会社(現BPカストロール。世界最大級のエネルギーグループ企業)でした。そこでは製品のマーケティング、チャンネル作りなど、大きな組織であるにもかかわらず、色々と自由にやらせてもらえました。これまでの自分自身の経験、そしてKBSで2年間学んだことを使って実践することができました。何より良い上司に出会い、会社としても温かく迎えてもらって、本当に楽しい仕事ができました。良いご縁をいただいた、よくぞご紹介くださったと感謝しています。
渡邊
当時、先方が求める人物像としておっしゃっていたのは、「自分たちは大きな会社ではあるけれど、変わらねばと思っている。きちんと商売をすることができ、かつ変化を起こしてくれる人、インキュベーションができる人がほしい」ということ。さらに「それらの実行をしながら、会社に対してはMBAのフレームなどを使い、しっかりと説明責任を果たしてくれる人ならベストだ」と。そこで、島田さんがぴったりではないかと思ったんです。
島田氏
そうだったんですね。
渡邊
求人内容とキャンディデイト(求職者・ご相談者)双方のスペックを合致させることは勿論ですが、それだけではいけないと私は思っています。特にMBAホルダーの場合は、転職先の会社にMBAの経営者や上司がいらっしゃることは最重要。その方がMBAを実際のビジネス現場で活用いただけますし、仕事もしやすいのではないかと思うからです。それからやはり、人と人とのマッチングを大切にしたい。いわば価値観のマッチングを何より重視したいんです。ですから、島田さんのパーソナリティーを理解し、島田さんに寄り添ったキャリア機会を提案しようと注力しました。
島田氏
渡邊さんからは、キャリアのことや転職について「こうすべき」みたいなことは、ほとんど言われた記憶がありませんね。マニュアル的な部分とか。それよりも、とにかく私の話をよく聞いていただいたという印象です。その中で、私の性格や考え方について把握いただき、先方の会社にいらっしゃる方との相性も含めて見極めてくださっていたんですね。
さらなる飛躍を求めて、ウェーブロックへ
渡邊
ペトロルブインターナショナルでご活躍されて、3年後に再びアクシアムへいらしていただきましたね。
島田氏
やりがいのある仕事をして良い経験を積んでいたのですが、会社の吸収合併、それに伴う方針転換などがあって。もう一度キャリアについて考えてみたくなり、再度ご相談にあがりました。そこでご提案いただいたのが、現在のウェーブロックでした。前回の時もそうでしたが、やはり木根渕との縁を結んでいただいたのは、私のキャリアにとって非常に大きかったですね。
渡邊
そう言っていただけると嬉しいです。ウェーブロックへのご入社後は、どんなお仕事をされてきたのですか?
島田氏
ウェーブロックという会社で仕事をするにあたり、まずは自分に足りない技術的なことに対する知識を補う必要があったのですが、当時の会長が随分鍛えてくださいました。会長室で製品に対するレクチャーをしていただき、そのレポートを書いて提出し、またそれを訂正いただいて…なんてことを毎日していました。そうして新規事業の担当として仕事を始めるのですが、当時社内では、なかなか事業部がうまく回らない状況でした。そんな折に、木根渕から私を含めた数名の若手が呼び出されて。「自分たちが部門のリードをしたい、新規事業をやりたいと、血判状を書いて俺に言ってこいよ!」と叱咤激励されたんです。びっくりですよね。ですが、この言葉をきっかけに奮起し、3名の若手中心で新たな事業を回していくことになりました。
つねに新しいチャレンジをする、トライ&エラーの日々
渡邊
ものすごい状況ですね。木根渕様らしいですが(笑)。
島田氏
社内に新規事業に対するノウハウはありませんし、毎日何かが起こるような状態でした。毎月、木根渕を含めて合宿をしてゼロから絵を描き、十数名のチームでトライ&エラーを繰り返しながら、なんとか仕事をしていきました。面白いのは、当時の私には「どこまでチャレンジすべきか」のメモリがなく、チャレンジするとなると突っ走りすぎてしまっていたこと。このくらいのアクセルの踏み具合なら上手くいくというのに、それができない。オンかオフしかなかったんですね。だから失敗もたくさんしましたが、おかげで今は少しだけわかってきた気がしています。まさに、待ったなしの中で、経験を重ねながら走らせてもらった10年間でした。
渡邊
普通は新規事業をやらせる方も、実績がある人材にさせたいと考えるものですが。すごい修羅場を乗り越えてこられたのは素晴らしいですね。
島田氏
組織の中で若い人材がなかなか育っていなかったことに、会社として危機感があったのだと思います。10年後、20年後を見据えたときに、今やらせてみることが若手を育てる好機になる、と見ていたのかもしれません。失敗の連続ではありましたが、私にとっては本当に良い経験ができたと感じています。
マネジメントとしての心境、これまでを振り返って
渡邊
これからの目論見や展望について、会社の代表として、また島田さんご自身としてどのようにお考えですか?
島田氏
会社としては、スタート時から掲げていることですが、「世界一」を目指すことです。私たちが扱うのはときにニッチな、だが必ず世の中に求められる分野の製品です。だからこそライバルは限られ、私たちのような規模の会社でも、確固たる分野で世界一になれるはずだと考えています。それから、私たちが持つ製品や技術のうち、まだまだ分野を変えれば輝けるものがたくさんあるはず。新しいアイデアを用いて、それらのプロダクトライフサイクルをできるだけ伸ばしていきたいですね。日本の中で眠っている製品や技術を海外にもっていくと、まだまだ輝くものがある。私個人としても、そのような製品や技術に光を当て、日本から発信していく仕事を続けることが何より面白いと思っています。
渡邊
あらためて島田さんのキャリアのお話を伺っていると、島田さんは10年早い。外資、ベンチャー、新規事業、グローバル、マネジメントなど、10年先に周囲が気づいて始めようとする経験を既に実行していらっしゃる。しかもそれらは戦略的に獲得してきたものではなく、面白いことをやろうと思って、結果獲得したもの。そこがナチュラルに上手なんです。
島田氏
ありがとうございます。確かに「こういうキャリアを作ろう」と強く思って歩んできたわけではありません。ただ真摯に自分の能力を高めよう、広げようと思って今がある。いつもワクワクする仕事をしていたい、その思いだけできたのかもしれません。
渡邊
20代・30代・40代の方へ、何かアドバイスをいただけますか?
島田氏
20代を振り返ると、インプットでいかにベースを作るかという時期だったと思います。30代は学んだことを使って、いかにチャレンジをしていくかが重要。結果責任も伴いますが、失敗も含めて実行し、その経験を蓄積していくことが大切なのではないでしょうか。いま私は41歳になりましたが、40代はマネジメントを目指す方にとっては、まだまだ同世代の競争が少なく、実力があればきっとチャンスも多いはずです。まだ失敗してもやり直せる年齢ですし、どんどん踏み出していくべきだと思っています。
渡邊
最後に、経営者の立場になられて変わったことはありますか?
島田氏
まだ数ヵ月だけの経験なのですが…今まで以上にビジネスを次の世代、次の次の世代につなげるためにどうすればいいのかを考えるようになりました。自分の話すことの重みが社内的にも対外的にも増し、責任を痛感しています。ただそれが良い刺激になって、もっと学ばねばという原動力になっていますね。
渡邊
本日は本当にありがとうございました。これからの島田さんが、経営者としてさらに大きく成長してくださることを何より楽しみにしております。
Profile
島田 康太郎
株式会社ウェーブロック・アドバンスト・テクノロジー
代表取締役 兼 執行役員社長
大学卒業後、英国グランプリレースウェアー株式会社へ、創業20年来初めての日本人正社員として入社。同社日本法人を代表取締役として設立し、日本での成長を牽引。その後、独立・起業・慶應ビジネススクールでのMBA取得を経て、2003年にペトロルブインターナショナル株式会社(現BPカストロール)に転身。2006年より日本ウェーブロック株式会社に参画し、2016年3月からはグループ会社である株式会社ウェーブロック・アドバンスト・テクノロジーの代表取締役に就任。
南山大学経営学部卒、慶應義塾大学大学院経営管理研究科・経営学修士(MBA)
インタビュアー/担当キャリアコンサルタント
渡邊 光章
株式会社アクシアム
代表取締役社長/エグゼクティブ・コンサルタント
留学カウンセラーを経て、エグゼクティブサーチのコンサルタントとなる。1993年に株式会社アクシアムを創業。MBAホルダーなどハイエンドの人材に関するキャリアコンサルティングを得意とする。社会的使命感と倫理観を備えた人材育成を支援する活動に力を入れ、大学生のインターンシップ、キャリア開発をテーマにした講演活動など多数。
大阪府立大学農学部生物コース卒、コーネル大学 Human Resource修了
1997年~1999年、民営人材紹介事業協議会理事
1998年~2002年、在日米国商工会議所(ACCJ)人的資源マネージメント委員会副委員長
著書『転職しかできない人展職までできる人』(日経人材情報)